تسجيل الدخول写真を制服の内ポケットへしまうと、俺は獅子寮の談話室を飛び出した。
重い扉が閉じる音を背中に聞いた瞬間、足が勝手に速くなる。
午後の授業を終えた学生たちが行き交う廊下を、テオとエマが追ってきた。開いたままの教本を抱えて歩く者、実習で使った薬草籠を提げた者、寮対抗戦の話で盛り上がっている者。いつもなら耳に入るはずの声が、今日は厚いガラス越しに聞いているように遠かった。
頭の中には、医療棟のことしかない。
あそこに、ミナがいるかもしれない。
その可能性に追いつこうとするように、俺の足はさらに速くなった。
「ハヤト、教本!」
テオの声と同時に、脇へ挟んでいた教本が滑り落ちた。
床へぶつかる寸前で、テオが片手を伸ばして受け止める。勢いよく屈んだせいで、彼が抱えていた自分の教本まで傾いた。
「あ……悪い」
「いいって。今のハヤトに持たせたら、医療棟へ着くまでに全部落としそうだし」
「自分で持てる」
手を伸ばしたが、テオは教本を返さなかった。
「持てるのと、ちゃんと持っていられるのは別だろ」
いつもなら言い返していたかもしれない。だが今は、その時間さえ惜しかった。
俺が再び歩き出すと、エマが隣へ並んだ。彼女の歩調は落ち着いていたが、決して遅くはない。俺が走り出さないぎりぎりの速さに合わせている。
「ハヤト。一度、呼吸を整えて」
「平気だ」
「平気な人は、そんなふうに肩で息をしないわ」
言われて初めて、胸が苦しいほど上下していることに気づいた。
まだ医療棟へ着いてもいない。階段を駆け上がったわけでもない。それなのに、細い紐で喉を締められたように息が通らなかった。
ミナに会えるかもしれないという期待。
もう手遅れかもしれないという恐怖。
二つの感情が胸の中でぶつかり合い、心臓を両側から握り潰そうとしている。
「落ち着いている時間なんてない」
「急ぐことと、何も見えなくなることは違うわ」
エマは俺を止めなかった。
「医療棟へ入ったら、あなたが話をしなくてはいけない場面もある。今のままでは、自分の名前を伝えるだけでも息が切れるわ」
俺は唇を噛み、鼻から深く息を吸った。
胸の奥まで届かない。それでも、二度、三度と繰り返すうちに、喉を塞いでいたものが少しだけ緩んだ。
「昨日まで何も分からなかったんだ」
歩きながら、俺は呟いた。
「探しても、手紙を送っても、返事はなかった。二年間ずっと、何もできなかった。もし本当にミナがここにいるなら、今度こそ……」
「うん」
テオが、抱え直した教本の向こうから答えた。
「今度こそ、ちゃんと会いに行こう」
大丈夫だとも、必ず救えるとも言わなかった。
その代わり、俺が一人で医療棟へ向かっているわけではないと教えてくれる声だった。
校舎の奥から延びる渡り廊下へ入る。
開かれた窓から吹き込んだ風が、白いカーテンを大きく膨らませた。午後の光を含んだ布が頭上で翻り、俺たちの足元へ明るい影を落とす。
渡り廊下の先に、医療棟が見えた。
あと少しだ。
俺は内ポケットの上から写真を押さえた。
そのとき、進行方向に複数の人影が現れた。
灰色の制服に、蛇をかたどった寮章。廊下の中央を塞ぐように立っている四人の中心で、金髪の学生がこちらを振り返った。
マルクス・ヴェルナーだった。
相変わらず制服には一つの乱れもない。金色の髪を後ろへ流し、片手をポケットへ入れた立ち姿には、ここが自分の屋敷であるかのような余裕があった。
取り巻きの学生たちも、俺たちの慌ただしい姿を見ると、示し合わせたように口元を歪めた。
「噂の医療戦士様が、ずいぶん血相を変えているな」
背の高い男子学生が笑った。
「また制服の着方でも注意されたのか?」
「今は相手をしてる暇がない。そこを通してくれ」
足を止めずに言うと、取り巻きたちが横へ広がった。
渡り廊下は広くない。四人が並べば、脇を通り抜ける隙間はほとんどなかった。
「聞こえなかったのか。急いでるんだ」
「聞こえているから止めたんだよ」
眼鏡をかけた学生が、医療棟を顎で示す。
「あちらは緊急対応中だ。選定で偶然名前を呼ばれただけの新入生が、見学気分で入っていい場所じゃない」
「見学に行くんじゃない」
「では、何をしに行く?」
マルクスが初めて口を開いた。
声は低く、取り巻きたちのように笑ってはいなかった。
その目は俺の顔を見たあと、内ポケットを押さえている手へ移った。
「探していた相手が、医療棟にいるかもしれない」
「いるかもしれない、か」
「確かめに行く」
「患者の情報は、入学して数日の学生が押しかければ教えてもらえるほど軽くない。家族を名乗れば病室を一つずつ開けて回れるとでも思っているのか?」
「そんなことをするつもりはないわ」
エマが一歩前へ出た。
「受付で事情を説明し、職員の判断を仰ぐ。それ以上のことを勝手にするつもりはないもの」
「ならば、医療戦士を連れていく必要もないだろう」
マルクスの視線が、俺の胸元へ向けられる。
選定の日から、見るたびに胸の奥をざわつかせる目だった。
俺自身ではなく、間違って選ばれた人間を確かめるような目。
「自分に与えられた肩書きを使えば、閉ざされた扉も開くと思ったか、キサラギ」
「俺は肩書きを使いたいんじゃない」
「では、なぜそんな顔で医療棟へ向かっている?」
「会いたいからだ」
口にした途端、取り巻きの一人が鼻で笑った。
「ずいぶん個人的な理由だな。医療戦士っていうのは、昔一緒に暮らしていた女の子に会うための特別入棟証なのか?」
「お前……」
思わず一歩踏み出した俺の胸へ、テオの腕が差し込まれた。
「ハヤト。今はこいつらと喧嘩してる場合じゃない」
「だが――」
「俺だって腹は立ってる。でも、目的は医療棟だろ」
分かっている。
ここで怒鳴り合っても、ミナへ近づけるわけではない。
それでも、二年間抱えてきた思いを、面白半分の言葉で踏みにじられたくなかった。
「会いたいだけで何が悪い」
テオの腕を押しのける代わりに、俺はマルクスをまっすぐ見た。
「会えるかもしれない人がいるなら、会いに行く。苦しんでいるかもしれないなら、今の俺にできることを探す。医療戦士に選ばれたからじゃない。選ばれていなくても、俺は行く」
「知識も経験もないお前が、何をする?」
「分からない」
取り巻きたちがまた笑いかけた。
俺は構わず続けた。
「分からないから、職員に聞く。俺にできることがないなら、そばにいる。必要なことがあるなら、教えてもらう。何もできないかもしれないって決めつけて、ここで背中を向けるよりはずっといい」
笑い声が止んだ。
マルクスの眉が、わずかに動いた。
「医療の場では、何かをしたいという気持ちが、最も邪魔になることもある」
「それも、行かなければ分からない」
「感情だけで患者へ近づく人間は、患者より先に自分の願いを見ている。目を覚ましてほしい。自分を思い出してほしい。感謝してほしい。そんな身勝手な願いを、治療という言葉で飾るんだ」
胸の奥を刺された。
会ったら、俺のことを覚えていてほしい。
名前を呼んでほしい。
二年間、俺を忘れていなかったと確かめたい。
そんな気持ちがないとは言えなかった。
「それでも俺は、ミナに生きていてほしい」
声が震えた。
「俺のことを忘れていてもいい。嫌われていてもいい。会いたくないって言われても、生きていてくれるなら、それでいい」
自分の口から出た言葉が、胸の奥へ重く沈んだ。
苦しかった。
けれど、それが俺の本心だった。
取り巻きの男子が苛立ったように舌打ちし、俺の胸元へ手を伸ばした。
「口では何とでも言える。だいたい、その手がかりだって本物かどうか――」
内ポケットへ触れられる寸前、その手首をつかんだ。
「触るな」
自分でも驚くほど低い声が出た。
相手が腕を引こうとする。だが、指は離れなかった。
「離せよ」
「先に手を出したのはそっちだろ」
制服の袖口で、光のハンカチが熱を帯びた。
布越しに伝わった熱が掌まで走る。次の瞬間、淡い金色の光が指の隙間から漏れた。
小さな光だった。
それなのに、渡り廊下の空気が一度だけ大きく震えた。
窓辺のカーテンが風とは逆の方向へ翻り、壁に掛けられた照明の光が、一斉に俺の手元へ引き寄せられる。
取り巻きの学生が息を呑んだ。
つかんでいた手首を離すと、その学生は二歩下がった。皮膚には傷一つない。ただ、腕を包んだ光の感触に驚いたように、自分の手を見つめている。
俺も何が起きたのか分からなかった。
ハンカチはすぐに元の白い布へ戻ったが、掌には脈打つような熱が残っている。
「脅すつもりか」
マルクスの声が、わずかに低くなった。
「違う。俺は何もしてない」
「力を制御できていないということか。それで医療棟へ入るつもりとは、ますます笑えないな」
「今のは、あなたのお仲間が勝手に触れようとしたから反応したのよ」
エマが鋭く言い返す。
「それに、緊急対応中の施設へ向かう認証者を、権限のない学生が廊下で足止めする行為も問題になるわ。わたしたちが規則に反したら、そのとき職員へ報告すればいい。今ここで進路を塞ぐ理由にはならない」
「そういうこと」
テオが俺の教本を片腕に積み直し、空いた手で取り巻きたちを指した。
「四人がかりで邪魔してる時間があるなら、授業の復習でもしてた方が名門らしいんじゃない?」
「貴様――」
「よせ」
マルクスが片手を上げた。
取り巻きたちは不満そうな顔をしたが、すぐに口を閉じた。
マルクスだけは動かなかった。
俺と彼の間を、窓から吹き込んだ風が通り抜ける。金色の髪がわずかに揺れても、その目は俺から逸れなかった。
「ひとつだけ覚えておけ、キサラギ」
「何だ」
「医療戦士の力は、奇跡を見せびらかすためのものではない。強い力ほど、間違った瞬間に患者を深く傷つける」
言い方は気に入らなかった。
けれど、その言葉まで間違っているとは思えなかった。
「分かってる」
「いや、お前はまだ分かっていない。選ばれたという事実に、力の使い方までついてくるわけではないからな」
マルクスは数秒、俺を見つめたあと、渡り廊下の端へ寄った。
取り巻きたちも渋々道を開ける。
「行け。そして、自分が何も知らないことを、その目で確かめてこい」
「言われなくても行く」
すれ違いざま、マルクスの声が追ってきた。
「救えなかったとき、お前は何を支えに立っているつもりだ?」
俺の足が一瞬だけ鈍った。
それでも、振り返らなかった。
答えは持っていない。
今はただ、救えない未来を想像して立ち止まるより、救えるかもしれない場所へ進みたかった。
医療棟へ近づくにつれ、校舎から聞こえていた話し声が薄れていった。
代わりに耳へ届いたのは、運搬用の車輪が床を転がる音と、短く交わされる職員たちの声だった。
正面入口の扉は閉ざされていた。
脇の表示板には、赤い文字で緊急対応中と浮かんでいる。透明な扉の向こうを、白い制服の職員が何人も行き交っていた。
俺は学生証を取り出し、認証板へ押し当てた。
青い光が表面を走り、医療戦士としての仮認証を示す文字が浮かぶ。
しかし、扉は開かなかった。
画面が切り替わり、緊急時共通番号の入力を求められる。
「番号……?」
「学生手帳を見て」
エマが鞄から手帳を取り出し、素早くページをめくった。
紙を繰る音が、閉ざされた入口でやけに大きく響く。
「緊急時の入棟規則はあるけれど、番号そのものは載っていないわ」
扉の向こうを職員が横切った。
呼び止めようとガラスを叩きかけ、手を止める。中の職員たちは誰もが何かを運び、誰かへ指示を出していた。こちらへ気づかせるためだけに仕事を中断させていいのか判断できない。
「ここまで来たのに……」
焦りが、胃の底からせり上がってきた。
表示された入力欄さえ滲んで見える。
その横で、テオが三人分の学生証を見比べ始めた。
「緊急時に全員が確認できる数字なら、新しく覚えさせるより、最初から持たせてる可能性が高いよな」
「テオ?」
「学生証の裏。緊急連絡先の末尾と、入力欄の桁数が同じだ」
テオが番号を入力する。
最後の数字へ指が触れた瞬間、認証板の色が赤から緑へ変わった。
重い扉が、低い音を立てて左右へ開いていく。
「正解……」
エマが小さく目を見開いた。
「たまには、その直感も役に立つのね」
「たまにはって何だよ。もっと素直に褒めてくれてもいいだろ」
「医療棟の中では静かにして」
「もういつものエマに戻ってるじゃん」
二人のやり取りを背中で聞きながら、俺は医療棟へ足を踏み入れた。
空気が変わった。
薬草を煮出した青い香り。洗い立ての布。冷たい石の床。淡い光を宿した医療器具から漂う、雨上がりの空気にも似た匂い。
校舎より温度が低いはずなのに、額へ汗が滲んだ。
奥では、寝台が二台続けて運ばれていた。患者を囲む職員たちは声を荒らげず、短い言葉だけで意思を伝え合っている。
「第三治療室へ」
「呼吸光、四十まで低下」
「安定薬草を追加。光脈の変化を見て」
慌ただしいのに、誰も無駄には走らない。
張り詰めた静けさが、かえって事態の深刻さを伝えていた。
受付には誰もいなかった。
俺たちは職員の邪魔をしないよう壁際へ寄り、声をかけられる人を探した。
そのとき、廊下の奥から切迫した声が響いた。
「ミナ、聞こえる? ミナ、目を開けて」
胸の中で、何かが弾けた。
同じ名前の別人かもしれない。
そう考えるより早く、足が動いていた。
「ハヤト、走らないで!」
エマの声に、床を蹴りかけた足を無理に抑える。
治療室から運び出された器具を避け、壁際を早足で進む。テオとエマもすぐ後ろからついてきた。
廊下の突き当たりにある治療室の扉が、半分だけ開いていた。
白い寝台。
その周囲を動く職員。
淡い青白い光に包まれた、細い手。
俺の視線が、寝台の上の少女へ吸い寄せられた。
二年前より伸びた髪が、白い枕の上へ広がっている。頬は記憶の中よりもずっと細く、閉じられた瞼の下には薄い影が落ちていた。
胸がかすかに上下している。
呼吸するたび、唇から細い息が漏れる。次の呼吸までの間隔があまりにも長く、そのたびに胸の中へ冷たい水を流し込まれた。
左手は、シーツの端を弱く握っていた。
何かに耐えるときの、昔から変わらない癖だった。
「ミナ……」
声が掠れた。
少女は動かなかった。
手首から肘へ、皮膚の下を走る細い光の筋が見える。血管に似ているが、脈打つたびに白い粒を散らし、少しずつ肩へ向かって伸びていた。
周囲を包む光は美しかった。
星明かりを集めたように澄み、触れれば温かそうにさえ見える。
けれど、その光が強くなるたび、ミナの顔から生気が失われていった。
きれいだからこそ、恐ろしかった。
雪が音もなく畑を覆い、芽吹くはずだったものを凍らせてしまうように、その光は静かにミナの命を奪っている。
治療室の入口にいた職員が、俺たちへ気づいた。
「学生は入れません。今は緊急治療中です」
「俺、この子を探してたんです」
息を吸っても、声がうまく出なかった。
「二年前まで一緒に暮らしていました。ミナです。俺の、大切な家族なんです」
職員の表情がわずかに変わる。
それでも、すぐに中へ通そうとはしなかった。
「家族関係を確認できるものはありますか?」
「正式な家族じゃありません。俺は孤児院で一緒に暮らしていただけで……」
言葉にした瞬間、目の前の扉がさらに遠く感じた。
法的には、俺はミナの兄ではない。
会う権利すらないと言われたら、何も返せない。
そのとき、袖口に入れていた光のハンカチが熱を持った。
布を取り出すより早く、金色の光が制服の中から溢れた。
光は一本の細い糸となり、治療室へ向かって伸びていく。
その先が、ミナの手首を包む青白い光へ触れた。
瞬間、治療室の器具が一斉に澄んだ音を鳴らした。
「共鳴……?」
職員が振り返る。
寝台のそばにいた年配の女性職員が、俺の手元を見て目を見開いた。
「あなたが、今年選定された医療戦士ね」
「はい。でも、まだ力を使ったことはありません」
隠しても仕方がなかった。
女性職員はミナの呼吸を確かめ、手首の光を見た。
「この子の光脈が限界に近づいています。通常の安定処置では、暴走する光を押し戻せません」
「暴走……?」
「本来、身体を巡る生命の光は、穏やかな川のように全身へ流れています。光の病は、その川へ大雨が降り続くようなものです。流れが速くなり、堤防を壊し、自分の身体まで削ってしまう」
女性職員の指が、ミナの手首へ伸びる光の筋を示した。
「私たちの治療では、外側から堤防を補強することしかできません。けれど、医療戦士の光なら、患者の内側へ入り、流れそのものを変えられる可能性があります」
「俺の力で、ミナを治せるんですか」
「今すぐ完治させることはできません」
胸が沈んだ。
女性職員は厳しい表情のまま続けた。
「けれど、決壊を止められるかもしれない。何もしなければ、この子の光脈はまもなく耐えられなくなります」
「やります」
考えるより先に答えていた。
「何をすればいいですか」
「光のハンカチで手を包み、呼吸を合わせてください。力任せに光を注いではいけません。洪水へさらに水を流せば、堤防が早く壊れるだけです。あなたの光で新しい道を作り、溢れた力を逃がすのです」
女性職員は俺の目をまっすぐ見た。
「病の光が逆流することがあります。腕に強い冷たさや痺れを感じたら、すぐに手を離してください。私たちが補助します」
怖くないわけがなかった。
力を使ったことさえない。
失敗すれば、目の前にいるミナをさらに苦しめるかもしれない。
マルクスの言葉が蘇った。
強い力ほど、間違った瞬間に患者を深く傷つける。
それでも、逃げるという選択肢はなかった。
俺は治療室へ入り、寝台のそばへ立った。
近くで見るミナの顔は、廊下から見たときよりもさらに白かった。額には冷たい汗が滲み、閉じられた瞼が小刻みに震えている。
「ミナ」
返事はない。
伸ばした手が震えた。
指先へ触れる。
まるで長い間、冬の夜へ置き去りにされていたように冷たかった。
その冷たさが掌から腕へ伝わり、胸の奥まで入り込んでくる。
「ハヤト、息をして」
エマの声がした。
職員の許可を得た彼女は、寝台の反対側からミナの呼吸を見ていた。
「一度に全部を救おうとしないで。次の一呼吸へつなぐことだけを考えて」
「でも、止められなかったら……」
「まだ起きていない結果に、今の手を止めさせないで」
エマは笑わなかった。
根拠のない励ましも口にしなかった。
「呼吸の変化はわたしが見る。職員の方々もいる。あなた一人で全部を判断する必要はないわ」
肩へ、テオの手が置かれた。
「俺たちもここにいる」
その温度に触れ、俺はようやく深く息を吸えた。
薬草の匂い。
ミナの弱い呼吸。
エマの声。
肩を支えるテオの手。
一つずつ確かめる。
俺は光のハンカチを広げ、ミナの手を包んだ。
「全部は治せないかもしれない」
白い布の縁が、淡い金色に染まった。
「今の俺には、知識も経験もない」
光が指の間から溢れ、ミナの冷たい手へ絡みつく。
「でも、やっと会えたんだ。もう二度と、一人にはしない」
ハンカチが強く輝いた。
次の瞬間、金色の光が柱となって天井まで立ち上った。
衝撃に押された空気が治療室を駆け抜け、白いカーテンが激しく翻る。棚に並んだガラス器具が触れ合い、澄んだ音を連続して響かせた。
眩しさに目を閉じても、ミナの身体を巡る光が見えた。
皮膚も、骨も、その内側にあるものも透かして、無数の光の道が頭の中へ流れ込んでくる。
細い川のように穏やかであるはずの光脈は、濁流へ変わっていた。
白い光の塊が狭い道を押し広げ、壁へぶつかり、行き場を失って荒れ狂っている。ところどころで流れが裂け、針のような光が周囲へ突き刺さっていた。
これが、ミナを苦しめているもの。
目に見える傷がなくても、身体の内側では嵐が暴れていた。
止めたい。
全部、消してしまいたい。
その思いに反応し、俺の光が一気に膨れ上がる。
金色の奔流がミナの光脈へ飛び込み、青白い光を正面から押し返した。
寝台が大きく揺れた。
ミナの背が反り、閉じた唇から苦しげな息が漏れる。
「ハヤト、強すぎる!」
エマの声が光を切り裂いた。
「押し返さないで! 逃げ道を作るの!」
息を呑む。
俺がしているのは、暴れる川へ正面から別の川をぶつけるようなものだった。
力と力が衝突するたび、ミナの身体がその間で削られてしまう。
「ごめん、ミナ……!」
光を引こうとした。
今度は、金色の流れが急速に細くなる。
弱めすぎれば届かない。強めれば傷つける。
手の震えが止まらなかった。
「急がなくていい!」
テオの手が、俺の背中を支えた。
「光は消えてない! ハヤトが思ってるより、ちゃんと届いてる!」
俺は歯を食いしばり、もう一度ミナの呼吸へ意識を向けた。
短く吸い、長く止まり、細く吐く。
その不安定な呼吸へ、自分の呼吸を重ねる。
一度の奇跡で、失った二年間まで取り戻そうとしない。
今ここにある命を、次の一秒へつなぐ。
その次の一秒へ。
さらに、その先へ。
俺の光が形を変えた。
激流のように押し寄せていた金色の輝きが、無数の細い糸へ分かれていく。
糸はミナの身体を縛るためではなく、壊れかけた光脈の脇へ新しい道を編み始めた。
一本。
また一本。
荒れ狂う青白い光を少しずつ受け取り、勢いを弱め、別の流れへ導いていく。
崩れかけた堤防の脇へ水路を掘り、溢れた水を安全な場所へ逃がすように。
俺の手の中で、光のハンカチが大きく広がった。
小さな布だったはずなのに、翼のような金色の光となってミナの寝台を包み込む。
天井へ届いた輝きが治療室全体へ広がり、壁に刻まれた医療術式を次々と目覚めさせた。床へ円形の紋様が浮かび、職員たちの補助光が四方から流れ込む。
「出力が上がっています!」
「補助術式を接続。この光を安定させて!」
職員たちの声が重なる。
俺の力だけではない。
エマが伝える呼吸の間隔。
テオの手の温度。
職員たちが支える光。
すべてが一本の流れとなり、ミナへ届いていく。
青白い濁流が、少しずつ勢いを失った。
皮膚の下を伸びていた光の筋が止まり、肩へ届く寸前で揺らめく。
「進行が止まりかけています。そのまま保って!」
女性職員の声が聞こえた。
額から落ちた汗が、頬を伝う。
腕は鉛を詰め込まれたように重かった。膝が震え、床へ崩れそうになる。
それでも、手は離さなかった。
あと少し。
ミナの呼吸が、今までより深くなる。
その瞬間だった。
青白い光の一部が、流れを逆向きに変えた。
細い針のような輝きが、ハンカチを伝って俺の掌へ突き刺さる。
「っ……!」
冷たい。
氷の刃で掌から肩まで一気に切り裂かれたような冷たさだった。
指が硬直する。
女性職員の言葉が蘇った。
強い冷たさや痺れを感じたら、すぐに手を離す。
ここで離せば、逆流は止まる。
けれど同時に、ようやく整いかけたミナの光も、再び荒れ始めるかもしれない。
「ハヤト?」
エマが俺の顔を見た。
「どうしたの?」
「何でもない。そのまま続ける」
歯を食いしばり、冷たさを押し込めた。
掌へ入り込んだ光が、腕の内側を這い上がってくる。
肘。
肩。
そして、胸の奥へ。
心臓を内側から冷たい指でつかまれたように、鼓動が一度大きく乱れた。
視界が白く明滅する。
それでも手を離さなかった。
「ミナ、戻ってこい」
掠れた声で呼びかける。
「俺はここにいる」
金色の光が最後の力を振り絞るように広がった。
ミナの身体を覆っていた青白い輝きと重なり、二つの光が大きく脈打つ。
一度。
二度。
三度。
やがて、荒れていた明滅が同じ速さへ揃っていった。
治療室を満たしていた風が止まる。
翻っていたカーテンが、力を失ったように静かに垂れた。
床の術式が一つずつ消え、最後に寝台を包む穏やかな光だけが残る。
「止まりました」
女性職員がミナの手首を確認した。
「光脈の拡大が止まっています。呼吸も安定し始めました」
その言葉を聞いた途端、全身から力が抜けた。
膝が折れそうになり、テオに背中を支えられる。
「治ったんですか」
息を切らしながら尋ねると、女性職員は静かに首を横へ振った。
「いいえ。病そのものが消えたわけではありません。これから詳しい検査と継続した治療が必要です」
胸の奥にわずかな痛みが走った。
「ただし、今この瞬間に進んでいた悪化は止まりました。あなたが新しい光の道を作ってくれたおかげです」
完治ではない。
すべてが終わったわけでもない。
それでも、ミナの呼吸は続いていた。
さっきまで一息ごとに遠ざかっていた命が、今はゆっくりと次の呼吸へつながっている。
俺は光を失ったハンカチを握り、何度も息を吐いた。
右腕には痺れが残っていた。
掌から入り込んだ冷たさは消えず、胸の奥で小さな氷の粒となって脈打っている。
けれど、力を使い切ったせいだと思った。
今は、それよりもミナだった。
しばらくして、シーツを握っていた指がわずかに動いた。
「ミナ?」
閉じられていた瞼が震える。
ゆっくりと開いた目は、最初は天井をぼんやり映していた。
視線がエマへ移る。
次にテオ。
最後に、俺の顔で止まった。
言いたいことは山ほどあった。
二年間、ずっと探していた。
無事でいてほしかった。
どうして何も知らせてくれなかったのか。
会いたかった。
声が聞きたかった。
けれど、安堵で頭の中が真っ白になり、どの言葉も喉を通らなかった。
結局、口から出たのは、昔と何も変わらない呼びかけだった。
「覚えてるか? ハヤトおにぃだよ」
ミナの目が、ほんの少し見開かれた。
次の瞬間、彼女は顔を窓の方へ逸らした。弱っているはずの指が、シーツの端をきゅっと握る。
「はぁ?! きっしょ! きしょすぎて滅とか言わせるな!」
声は掠れていた。
それでも、その鋭さだけは二年前と少しも変わっていなかった。
俺は言葉を失い、静かに肩を落とした。
テオが無言で肩へ手を置く。
「まあ、ドンマイ」
「二年ぶりの再会だぞ。もう少し感動してくれてもいいだろ……」
「目を覚まして最初にそれを言えるなら、たぶん大丈夫よ」
エマの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
職員たちは安堵しながらも、すぐに治療を再開した。
「患者はまだ消耗しています。話は状態が落ち着いてからにしてください」
「はい」
離れたくはなかった。
けれど、今の俺がそばに残れば治療の邪魔になる。
寝台から手を離そうとしたとき、ミナの指先がわずかに動いた。
一瞬だけ、俺の袖をつかむ。
それはあまりにも弱く、次の瞬間にはシーツの上へ落ちていた。
それでも、確かに触れた。
「また来るから」
ミナは目を閉じたまま、返事をしなかった。
けれど今度の沈黙は、もう恐ろしくなかった。
呼吸が続いている。
胸が穏やかに上下している。
それを何度も確かめてから、俺はテオとエマとともに治療室を出た。
扉が閉まった途端、足元が大きく揺れた。
壁へ手をつこうとしたが、距離を測り損ねる。掌が空を滑り、肩から廊下の壁へぶつかった。
「ハヤト?」
エマの声が遠く聞こえた。
「大丈夫。ちょっと力を使いすぎただけだ」
身体が熱い。
それなのに、背中には氷を押し当てられたような寒気が走っていた。
額から冷たい汗が流れ、制服の襟元へ落ちる。息を吸うたび胸の奥が細かく軋み、視界の端で白い光が弾けた。
廊下の床が波のように上下している。
一歩踏み出すと、靴底が自分のものではないように感覚が鈍かった。
右手の痺れは、もう肩を越えて胸まで広がっていた。
袖の中で何かが淡く光った。
誰にも見られないよう腕を身体へ寄せ、そっと袖口を引き上げる。
手首の内側に、白い筋が浮かんでいた。
皮膚の下を這う細い光。
脈打つたびに小さな粒を散らしながら、ゆっくりと肘へ向かって伸びている。
治療室で見た、ミナの光と同じだった。
息が止まる。
慌てて袖を戻した瞬間、胸の奥で冷たい光が大きく脈打った。
心臓が一拍だけ遅れ、その次に痛いほど強く跳ねる。
膝から力が抜けた。
テオが教本を床へ置き、倒れかけた俺の腕をつかんだ。
「ハヤト、顔が真っ白だぞ」
「光を使ったから、疲れただけだよ」
「でも、震えてる」
握られた腕の内側で、白い筋がまた一つ伸びた。
俺はそれを隠すように袖口を押さえ、無理に口元を持ち上げた。
テオが俺の顔を覗き込む。
「もしかして、体調悪い?」
「何でもないよ」
今話では、ハヤトが初めて医療戦士の力を実際の場面で使用する、大切な転換点です。力が暴走しかけたハヤトですが、エマやテオの協力で力をコントロールし、ミナの疫病の進行を遅らせることには成功します。しかし完治は出来ず、これからハヤトは本当の意味で疫病を終わらせる試練や戦いに挑みます。他寮との対立も激化し?!少しでもおもしろいと思われましたらブクマ、評価、レビューいただけますと泣いて喜びます。
「やって……ません」 喉の奥に張りついた息を、声と一緒に無理やり押し出した。 視界の端では、白い霞がゆっくりと渦を巻いている。円形に並んだ机も、その向こうに立つ生徒たちも、薄い膜を隔てたように輪郭がぼやけていた。息を吸っても胸の途中で止まり、次の呼吸へうまくつながらない。額から流れた汗が頬を伝い、顎の先から答案用紙へ落ちた。 机の縁をつかむ指先が震えていた。 それでも、俺は教授から目を逸らさなかった。「そんな状態だからカンニングした。違うか!」 教授の鋭い声が、広い試験会場を震わせる。 胸の奥を締めつける圧迫感よりも、その言葉のほうが深く突き刺さった。 身体が思うように動かないことと、心まで折れることは同じではない。 俺は椅子の肘掛けを押し、立ち上がろうとした。膝に力が入らず、椅子の脚が床を大きく擦る。上半身が傾いたが、机へ手をつき、どうにか踏みとどまった。 白い霞の中央に、教授の険しい顔を捉える。「俺は……やってません。体調が悪いからって、不正に逃げたりしない」 声は掠れていた。呼吸も途切れていた。 それでも、言葉だけは揺らがせなかった。 会場のあちこちで交わされていた囁きが、わずかに静まる。 教授の横では、マルクスが偽の答案用紙を掲げていた。冷たく整った顔には、勝ち誇った笑みも、焦りも浮かんでいない。ただ、折り畳まれた紙を挟む指先にだけ、わずかに力がこもっていた。「口では何とでも言える。現に、お前の袖から――」「待ってください」 マルクスの言葉を遮った声は、会場の外周に近い席から聞こえた。 鹿寮の生徒が一人、静かに立ち上がっている。その手には小型の撮影端末が握られていた。 霞む視界を細めた瞬間、俺はその生徒を思い出した。 廊下や講義室で、何度か俺へカメラを向けていた人物だ。俺が視線を返すと、近づいてくるでも話しかけるでもなく、端末を下ろして人混みの向こうへ消えていた。 鹿寮の生徒は名乗らず、教授の前まで歩いていった。「これを確認してください」 差し出された端末を、教授は険しい表情のまま受け取った。 やがて、試験会場正面の大型表示板に映像が映し出される。 映っているのは、試験が始まって間もない会場だった。 画面の中央付近に、机へ向かう俺の姿がある。ペンを握る手はすでに震え、何度か目元を押さえていた。その斜め後ろ
「なんの騒ぎだ!」 張り詰めた空気を切り裂くような声が、医療棟の廊下に響き渡った。 床を打つ靴音が近づいてくる。俺は両腕を広げたまま、ミナとマルクスの間に立っていた。 胸の奥が狭い。息を吸っても、必要な量の空気が入ってこない。視界は薄い水膜に覆われ、窓から差し込む昼の光が白く滲んでいる。それでも、ミナへ伸ばされたマルクスの手と、その冷たい眼差しだけは見失わなかった。 背後から、ミナの浅い呼吸が聞こえる。 守らなければ。 その思いが、震えかけた膝を床へつかせなかった。 駆けつけた教授は、俺たちの顔を順に見た。マルクスの伸ばした手、進路を塞ぐ蛇寮の生徒たち、その前に立つ俺、検査室の扉を背にしたミナ。短い沈黙の間に、目の前の状況を正確に読み取っていく。「ミナ、何があった?」 教授に尋ねられ、ミナは胸元へ添えていた手をゆっくり下ろした。顔色は青白い。けれど、俯くことなく、自分の言葉で答えた。「検査室へ行こうとしたら、マルクスが前に立って……退いてほしいと何度も言いました。でも、聞いてくれませんでした」「触れられたか?」「いいえ。ハヤトが間に入ってくれたから」 その声には微かな震えが残っていた。それでもミナの瞳は逃げず、マルクスへ向けられている。 教授の表情が険しくなった。「マルクス・ヴェルナー! これはどういうことだ! 入院中の未成年患者に詰め寄り、本人の拒絶を無視して接触を強要しようとした。蛇寮を十点減点する!」 廊下の空気が、一瞬で凍りついた。 取り巻きたちが互いの顔を見る。四寮の得点争いが激しさを増している今、十点は小さな処分ではない。しかも獅子寮と蛇寮の差を大きく変える減点だ。「十点ですと?」 マルクスは声を荒らげなかった。 白い指先をゆっくり引き戻し、制服の袖口を整える。その動作には、自分が叱責される側であることなど受け入れていない傲慢さが滲んでいた。「俺は彼女の状態を確認しようとしただけです。医療を学ぶ者として、患者の症状に関心を持つのは当然でしょう」「本人が拒んでいる。それだけで十分だ」「病気で不安定になっている者の言葉を、すべて正しいと判断するのですか?」 ミナの肩が小さく揺れた。 俺の胸の奥で怒りが熱を持つ。病気を理由に、ミナの意思まで曖昧なものとして扱う。その言葉だけは聞き流せなかった。 だが、口を開く
「本当に行くつもりなのか?」 テオの声が、朝の獅子寮談話室に落ちた。 長い窓から差し込む光はまだ淡く、磨かれた床の上をゆっくりと伸びていた。暖炉には昨夜の火の名残がわずかに赤く残り、焼きたてのパンと紅茶、古い木製家具の匂いが混ざっている。 いつもなら心を落ち着かせてくれる朝の匂いだった。 けれど、今の俺には、目の前の光景すらまともに見えていなかった。 窓も机も椅子も、輪郭が水に溶けたように揺らいでいる。正面に立っているテオの顔も、髪の色と制服の形でかろうじて見分けられるだけだ。視界の端には白い靄がかかり、ときおり光の粒がちらついた。「行くよ」 俺はそう答え、制服の袖口へ手を伸ばした。 小さなボタンを留めようとしても、指先に力が入らない。震える親指と人差し指の間から、ボタンが何度も逃げていく。三度目に爪が布をかすったところで、とうとう手を下ろした。 ただそれだけの動作で、呼吸が乱れていた。 胸の奥へ冷たい布を詰め込まれたように、深く息を吸えない。浅い呼吸を何度も繰り返しているうちに、首筋へ汗が浮かんだ。「無理だろ、それ」 テオは俺の前まで来ると、顔をのぞき込んだ。「顔色、朝の壁より白いぞ。今日は休め。講義の内容なら俺が聞いてくる」「お前、昨日の講義で半分寝てただろ」「あれは目を閉じて集中してたんだ」「寝てたわよ」 ソファの向かい側で、エマが冷静に言った。 彼女は湯気の立つカップを机へ置き、俺のそばまで来た。ひんやりした指が手首へ触れる。視界がぼやけていても、彼女の表情が険しくなったことは、わずかに止まった呼吸でわかった。「ハヤト、手を握ってみて」 言われたとおりに指を曲げる。 けれど、エマの手を包むどころか、指先が掌へ触れる前に震え始めた。「昨日より悪くなってる」「まだ歩けるよ」「歩けるかどうかを聞いてるんじゃないわ。視界は?」「少し、ぼやけてる」「少し?」 エマの声が低くなった。 俺は答えず、窓の方を見た。外に木々があることはわかる。だが、枝も葉も一つの緑色の塊に見えた。「……テオの顔が、ほとんど見えない」「俺のこの整った顔が見えないなんて重症だな」「そこで冗談を言わないの」 エマに叱られ、テオは口を閉じた。それでも俺の肩へ置かれた手には、普段の気楽さとは違う強い力が込められていた。「部屋に戻ろう、ハ
「講義を抜けるったって、どうやって抜けるんだよ」 俺が声を潜めると、テオは待っていましたとばかりに身を乗り出した。 講義前の獅子寮の談話室は、いつになく騒がしい。長机を囲んで課題を見せ合う声に、教本の紙をめくる音が重なっている。大きな窓から差し込む朝の光が、使い込まれた木製家具の表面を柔らかく照らしていた。温かい茶と焼いたパン、それに古い木の匂いが混ざり合っている。「俺がハヤトに変装して講義受けるぜ!」 胸を張ったテオの宣言に、俺は言葉を失った。 向かいに座るエマは、持ち上げかけたカップを静かに置いた。「いつも通り斜め上ね」「待て。見た目も声も違うだろ」「髪の色は近い。背丈もほとんど同じ。制服を同じように着れば、後ろから見ただけじゃ分からないって」「講義は後ろ姿だけで受けるものじゃない」「もっと現実を見なさい、テオ」 俺とエマから同時に否定されても、テオは少しもひるまなかった。「でも、ミナの様子が心配なんだろ? 面会時間まで待ってたら、今日の講義が全部終わっちまう。ハヤトの顔に、俺は今すぐ行きたいですって書いてあるぜ」 思わず頬へ手を当てそうになり、途中で止めた。そんなものが本当に書いてあるはずはない。それでも、否定の言葉は出てこなかった。 エマが俺を見つめる。厳しさの奥に、わずかな気遣いを含んだ目だった。「昨日、あなたの力でミナの光の病の進行は遅くなった。でも、完治したわけではないわ」「ああ。分かってる」「さらに治療を進めるには、あなたが医療戦士の力を安定させる必要がある。それに、光の病そのものについても研究を重ねないといけない。焦って力を使えば、何が起こるか分からないのよ」 冷静な言葉が胸に刺さる。正しいからこそ、反論できなかった。「それでも、顔を見ておきたいんだ」 自分でも驚くほど低い声が出た。「昨日より苦しくなっていないか。熱は下がったのか。ちゃんと眠れたのか。それだけ確かめたら戻る」「そう言って、あなたは放っておけなくなるでしょうね」 エマは小さく息を吐いた。けれど、拒むように教本を閉じるのではなく、膝の上から一冊のノートを取り上げた。「仕方ないわね。今回だけよ」「さすがエマ!」「喜ぶのは早いわ。テオ、あなたが解剖学の講義で指名されたら、この計画はそこで終わりだから」「俺の知識を甘く見るなよ。骨はだい
写真を制服の内ポケットへしまうと、俺は獅子寮の談話室を飛び出した。 重い扉が閉じる音を背中に聞いた瞬間、足が勝手に速くなる。 午後の授業を終えた学生たちが行き交う廊下を、テオとエマが追ってきた。開いたままの教本を抱えて歩く者、実習で使った薬草籠を提げた者、寮対抗戦の話で盛り上がっている者。いつもなら耳に入るはずの声が、今日は厚いガラス越しに聞いているように遠かった。 頭の中には、医療棟のことしかない。 あそこに、ミナがいるかもしれない。 その可能性に追いつこうとするように、俺の足はさらに速くなった。「ハヤト、教本!」 テオの声と同時に、脇へ挟んでいた教本が滑り落ちた。 床へぶつかる寸前で、テオが片手を伸ばして受け止める。勢いよく屈んだせいで、彼が抱えていた自分の教本まで傾いた。「あ……悪い」「いいって。今のハヤトに持たせたら、医療棟へ着くまでに全部落としそうだし」「自分で持てる」 手を伸ばしたが、テオは教本を返さなかった。「持てるのと、ちゃんと持っていられるのは別だろ」 いつもなら言い返していたかもしれない。だが今は、その時間さえ惜しかった。 俺が再び歩き出すと、エマが隣へ並んだ。彼女の歩調は落ち着いていたが、決して遅くはない。俺が走り出さないぎりぎりの速さに合わせている。「ハヤト。一度、呼吸を整えて」「平気だ」「平気な人は、そんなふうに肩で息をしないわ」 言われて初めて、胸が苦しいほど上下していることに気づいた。 まだ医療棟へ着いてもいない。階段を駆け上がったわけでもない。それなのに、細い紐で喉を締められたように息が通らなかった。 ミナに会えるかもしれないという期待。 もう手遅れかもしれないという恐怖。 二つの感情が胸の中でぶつかり合い、心臓を両側から握り潰そうとしている。「落ち着いている時間なんてない」「急ぐことと、何も見えなくなることは違うわ」 エマは俺を止めなかった。「医療棟へ入ったら、あなたが話をしなくてはいけない場面もある。今のままでは、自分の名前を伝えるだけでも息が切れるわ」 俺は唇を噛み、鼻から深く息を吸った。 胸の奥まで届かない。それでも、二度、三度と繰り返すうちに、喉を塞いでいたものが少しだけ緩んだ。「昨日まで何も分からなかったんだ」 歩きながら、俺は呟いた。「探しても、手紙を送っ
授業を終えた俺は、獅子寮の郵便受けに届いていた一通の封筒を手に、談話室へ戻った。 窓から差し込む夕方の光が、長机の上に積まれた教本を淡い金色に染めている。使い始めてまだ数日しか経っていない本の背には、もう何度も開いた跡がついていた。慣れない授業に疲れた学生たちは、椅子に深く腰かけたり、温かい飲み物を片手に今日の課題について話したりしている。 紙とインクの匂いに、誰かが淹れた薬草茶の香りが混じっていた。 けれど、俺は談話室の空気をほとんど感じていなかった。 目は、手の中の封筒に引きつけられていた。 俺の名前が、間違いなく書かれている。 寮の郵便受けを開けた瞬間から、胸の奥で鼓動が速くなっていた。今まで一度も手紙をくれなかった相手の顔が、なぜか真っ先に浮かんだ。「ミナ……?」 声にした途端、期待が急に形を持った。 俺の居場所を知って、連絡をくれたのかもしれない。何も言わずにいなくなったことを謝る手紙かもしれない。あるいは、たった一言だけでも、元気だと知らせてくれたのかもしれない。 返事をどう書こう。 そんなことまで考えながら封筒を裏返し、俺は息を止めた。 差出人の欄に書かれていたのは、ミナの名前ではなかった。 ミナを引き取った里親の名前だった。 胸の高鳴りが、別のものへ変わる。「どうした、ハヤト。郵便受けの前からずっと、その手紙とにらめっこしてるけど」 長椅子に座っていたテオが、開いていた教本から顔を上げた。その向かいでは、エマが小さな紙片に授業の要点を書き出している。 俺は二人のいる長机まで歩き、空いている椅子を引いた。「ミナの里親からだ」 テオの表情から、疲れを隠すような笑みが消えた。 エマもペンを止める。「以前、話していた女の子ね」「ああ」 封筒の端に指をかけたものの、すぐには開けられなかった。 もし、中に望んでいない知らせが入っていたら。 その考えが頭をよぎる。けれど、開けずにいれば何も知ることができない。俺は浅く息を吸い、紙を傷つけないように封を切った。 便箋を探して指を差し入れる。 触れたのは、厚みのある一枚の紙だけだった。「写真……?」 取り出したものを見て、テオが身を乗り出す。 手紙はなかった。 説明も、短い伝言さえも入っていない。 写真に写っていたのは、白い壁と淡い青色の窓が並ぶ大きな建







